挙頭望名月

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zoom RSS 惣領の甚六

<<   作成日時 : 2017/10/12 10:28   >>

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 恐縮ながらいまは亡き長兄にまつわる話を一席。
 育った家は三男三女、昭和の昔ならごく当たり前普通の家庭、上から女・男・女・男・の順に生まれたがそこで三男の私そして末は女の順。
 太平洋戦争が始まる頃までは商売繁盛、家運隆盛、恵まれた環境で育ったゆえ長兄は家督継ぐ身と大事に育てられたが惣領の甚六、晩年は家運衰え孤独のうちに一生を終えた。
 その亡兄にまつわる思い出といえば、幼い頃父に連れられ香川県の善通寺師団に入隊したとき面会にいったこと。
 兄は体格だけは人並優れ甲種合格。帝国陸軍一兵卒として徴兵された。
 当時高知県に本籍ある者は地元高知の歩兵部隊に入営するのが一般的だったが、どういうわけか頑健な体力を見込まれてかどうか知らぬが、香川県善通寺市の山砲部隊に入営する破目になった。
 山砲部隊といえば山また山、険しい道を大砲や車輪を肩にかついで駆け巡る重労働の軍役である。
画像

 そこに入営し一年後兄の部隊はいよいよ海外に赴くことになった。噂で満州方面にゆくと聞いていた父は「これが最後か」と私を連れ長時間の汽車の旅、善通寺に赴いた。
 交通事情が不便な戦時中の長旅、父は「日曜日には面会が許されるだろう」と考え、前日土曜の夜現地に着き、善通寺参りの遍路宿で一夜を明かした。
 その翌朝、初めての長旅が珍しく宿の二階の窓際に坐って道行く人をなんとなく眺めていると、いままで見たことのない青い目の白人たちが二列縦隊で足早く通り過ぎてゆく。よくよくみると彼らはくたびれた軍服だったがみんな屈託なさそうな顔つきで背すじのばし行進していた。
 思うに当時日本中が戦勝に浮かれていた頃、多分占領した香港から連行された英国兵の捕虜ではなかっただろうか。行列の前後を銃剣付け小銃かつぎ看守する日本兵が背低く半ば駆け足でついてゆく姿がとてもユーモラスだったのが脳裏に残っている。
 そして日曜日の午後、父と一緒に兄が入隊している山砲部隊の営舎に赴いた。営舎に入り直ぐのところが面会所でそこで外出していた兄を待っていると一時間余経ったころ兄の姿が目に入った。
 新兵は入門する際歩哨が立っている位置から当番下士官が坐っている詰所前までは敬礼の姿勢で通過しなければならない。
 そこに古参軍曹がでんと坐っていて新兵いびりのまっ最中。
「おい、おまえ!ちょっとここに来い!」
「おまえ、手にもってるものは何か?」といった調子で、詰所に呼ばれた新兵が散々油をしぼられる光景が次々展開され、それを見て子供心「軍隊は怖いところやなぁ」と身が引き締まる思いだった。
さて兄の順番になった。どうなることかと息をのみ見守っていると、衛兵前で敬礼、数歩歩いた途端に、当番の下士官が一喝。
「こらっ!本をさげてるおまえ!こっちへ来い」
 兄が詰所に呼びつけられ十数分後やっと解放され面会所に現れたが、そこから後の話は戦後父から聞いた。
 そのとき兄が携えていたのは聖書でそれが理由「そんな敵性本を提げ外出していたとはけしからん! 軍紀上許されんぞ」と散々痛めつけられたという。
 そのことでなによりショックを受けたのは入営するとき聖書を持たせた父ではなかったかといまも思う。
 わが子が徴兵され国のため盡すことをなによりも名誉と心得、出征を心底喜んで見送った父だが、一方で信ずるキリスト教、聖書で説く愛、「敵を愛する」という言を理解する父、その心情的矛盾、いかに考えていたかいまもって不思議だが、当時は常軌通じぬ戦時中のこと、無理もないが、思えば人間喪失の時代だった。

 ・・・身すくめ道ゆく人や冬の旅・・・


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